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桂文枝一門 襲名披露公演 ブログ
文枝代々
  近代上方落語界きっての大名跡
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四代目がつなぎ五代目が大輪の花を

上方落語の最高名跡であった文枝の名はその後、35年以上も空位のままとなり、戦後の上方落語復興期に三代目の弟子であった枝三郎が四代目を襲名する。昭和22年3月頃である。上方の落語家が十数名という時代にあって、落語家暮らしは苦労の連続であり、踊りの師匠を兼ねて糊口をしのぐという状態であったが、バトンをつないだことによって、次の五代目でまた大きな花を咲かせることになる。

文枝の名跡は四代目没後、またもや約35年もの空位となる。しかし四代目門下で、上方落語の四天王の一人、小文枝が盛大な披露目を行いみごとに復活させた。五代目文枝は、昭和22年に四代目に入門。当時の若手落語家は、のちに四天王と呼ばれる、六代目笑福亭松鶴・三代目桂米朝・三代目桂春團治と文枝の4 人。さらに、このあと師匠連が相次いで亡くなる中、4人が第一線へ放り出されることになるが、粉骨砕身し、 滅んだとまで言われた上方落語の復興に力を尽くした。型にはめることのない育成方針から、落語家だけでなく多分野で活躍する弟子も育て、昭和59年から平成6年まで上方落語協会の四代目会長を務めた。華やかで陽気な語り口に定評があり、平成9年紫綬褒章受章、平成15年旭日小綬章受章。没後の平成18年3 月に大阪市中央区の高津神社境内に、「五代目桂文枝之碑」が三枝を筆頭とする門人たちによって建立されている。


高座で踊る四代目文枝


五代目文枝襲名船乗り込み


五代目文枝碑

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