ホーム ご挨拶 経 歴 文枝代々

桂文枝一門 襲名披露公演 ブログ
文枝代々
  近代上方落語界きっての大名跡
  初代
  二代目
  三代目
  四代目
  五代目

二代目争いが上方落語界を活況に

明治中期、桂派と浪花三友派が話芸を競い合い、上方落語の黄金期を築き上げたとき、この中心になったのが、初代文枝門下の四天王と呼ばれる面々であった。のちに二代目を襲名する初代桂文三、初代桂文團治、二代目桂文都、初代桂文之助の4人。襲名争いに敗れた3人の一門は浪花三友派に籍を置くことになり、桂派はもちろん二代目が中心となる。

二代目文枝は紀州粉河に生まれ、堺の伯父の元に預けられて丁稚奉公にでたが続かず、素人落語に加わって南光を名乗る。その後、明治2年に当時の上方落語界で一派をなしていた立川派の一門となって立川三木助を名乗って正式に落語家として歩み始めた。四代目まで続く(桂)三木助の初代ということになる。そして、明治5年に文三を名乗って、文枝門下に名を連ねることになったのである。

明治7年に初代文枝が亡くなると、師名をめぐる襲名争いが起こる。争いになるほどに、文枝の看板は憧れの的であったのだ。決着するのは七回忌の法要のときに、初代の未亡人が門下の文三、文都、文之助を呼び、文三を推したことがきっかけになる。文三と文之助の間で折り合いがつくまでに1年間かかり、明治14 年12月に二代目文枝襲名が行われた。

二代目文枝は芸もさることながら、人格者であり引退後は心学道話の道に入ったという。淡々とした語り口は大人の風格があり、明治末期に桂文枝名で発売されたSP盤レコードは、その語り口調からおそらく二代目ではないかと考えられている。レコードの声の主がなぜはっきりしないのかというと、レコードの発売時期には二代目は出身地の紀州にちなんで文左衛門と改名し、三代目に文枝の名を譲っていたからである。そのために三代目の可能性も残るのだが、海外でプレスをするために、録音から発売までに相当の月日を要した時代であったし、声質から二代目の可能性が高いと考えられているのだ。

二代目から生前に三代目を譲られた次の文枝は、近所に住んでいた初代文枝に可愛がられて落語家になったという経歴の持ち主。初代の隠し子ではなかったかという説さえあり、二代目の薫陶をうけて早くから人気者になったが、47歳の若さで病没。死後、上方落語の本流であった桂派は急激な衰えを見せ、のちの上方落語衰退の遠因となった。


二代目文枝の落語が掲載された明治時代の本


桂文枝のSPレコード(1)


桂文枝のSPレコード(2)

< 一代で ”文枝” を大名跡に
四代目がつなぎ五代目が大輪の花を >

▲トップにもどる

Copyright © YOSHIMOTO KOGYO All rights reserved.