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桂文枝一門 襲名披露公演 ブログ
文枝代々
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一代で ”文枝” を大名跡に

天保から嘉永にかけてのころ(1840 〜1850頃)、桂慶枝を名乗っていたのちの上方四代目文治のもとに、笑福亭梅花門人の萬光が移籍してくる。元は三文字屋万兵衛という家具職人で、22歳のときに梅花に入門したという。三代目文治へ入門したという説もあり、さらに移籍したのかもしれないが、いずれにしても芸熱心であった萬光は瞬く間に腕を上げ、師匠慶枝の前名である桂文枝を名乗ることになる。その後、「その頃、京阪間に誰一人として、この文枝に肩を比ぶる者なかりしとぞ」(明治13年4月 11日付「大阪朝日新聞」桂文枝七回忌追善供養記事より抜粋)というほど、売れに売れ、特に京都から大阪への淀川を下る船旅を描いた「三十石」の人気ぶりはのちにいろいろなエピソードを残すほどであった。

文枝の師匠の慶枝は安政2年(1855)に四代目文治を襲名するが、不幸にも早世したようである。そこで四代目門下で人気も実力も抜きんでていた文枝へ、次の五代目の襲名話がまわってきて当然だったのだろうが、何しろ文枝の名で大いに売れているので、この話は実現せずに初代文治門下の生き残りで落語作家となっていた月亭生瀬が上方の文治の名跡を預かることになった。また、文枝は仲間や興行関係者からの徳望もあり、どこの寄席の主人も、文枝の肖像を床の間にかけて敬ったという逸話も残っている。

その結果、文枝は一代で文治を超える大名跡となり、桂派の総帥となった。明治維新の戸籍作成では、本名を桂文枝としたほどであったし、実際は初代ではないのに、それ以前の文枝の事跡を消し去るほどに、この文枝は大看板となったのである。このような例は、上方では笑福亭において、遠祖とされる松竹や始祖の吾竹ではなく、元来吾竹の弟子であった松鶴が家元名になったことや、また江戸・東京でも二代目三遊亭圓生門下の圓朝が、人気実力で抜きんでたため、圓生よりも圓朝のほうが大きな名跡と認識されている事情と通じるところがある。

これほどまでに売れ、また尊敬を集めた文枝であったが、その写真は見つかっていない。ただし、姿を描いたものはたった1つ、幕末から明治にかけて数多く摺られた流行唄の版画の中に見つかっている。「文」の文字を4つあしらった「文枝紋」を染め抜いた羽織を着て、首に帯をかけて古の美男子・在原業平と「首引き」という遊びに興じる姿。どれほどこの絵姿が似ているのか、ほかに比較するものがないので判断する術がないが、一緒に摺られている大津絵節の歌詞によれば、顔にあばた(疱瘡の跡)ができてしまって気の毒だが、業平にも負けない男前だとあるので、かなりのイケメンだったのだろう。

一方、芸談やエピソードで有名なのは「落語『三十石』の質入れ」の話である。博打に負けて金に困った文枝が十八番だった落語「三十石」を質入れし、高座へかけることを封印してしまう。文枝の「三十石」をどうしても聞きたいという贔屓の客が大枚をはたいて引き出し、復活公演にかけつけた客でしばらく寄席は大入りが続いたという。金高や客の名前に諸説あり、実話かどうかも確証はないが、さほどに文枝の「三十石」は人気が高かったのであろう。


明治時代の大阪の寄席


二代目文枝ののる番付

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